つきよみぐう
常若の月読宮
久留米大神宮(伊勢宮)と月読宮
御由緒
久留米大神宮は、三重県伊勢市の神宮(伊勢神宮)の正宮である外宮の御分霊が久留米の地に奉斎された神社です。月読宮は久留米大神宮の摂社とされます。
当社本源之事
一、当社本源は伊勢国 度会郡 山田原 外宮 豊受皇太神宮にて御座候。
流派之事
一、神道大中臣流 伊勢国 外宮之祠官 橋村肥前大夫 一派にて御座候。
(寛文十年久留米藩社方開基2頁)
久留米大神宮には、豊宇気比賣神社・伊勢ノ宮・大神宮・天照大神宮・久留米伊勢宮と多くの社名が見られますが、地域の人々からは「伊勢ノ宮さん」と親しまれていました。※「久留米大神宮」の名称は現在は御社がないために、下記の城下図にある「大神宮」を参考に、わかりやすく久留米の大神宮としたものです。
いつの頃より久留米大神宮の境内に月読宮がお祀りされ「三夜さん」とよばれるようにもなりました。
祭禮も賑やかに行われていたと伝えらており、久留米藩の記録には様々な神事や芸能が行われていた様子が記録されています。昭和の時代に※1紺屋町より久留米大神宮と月読宮を当社に御遷座するにあたり、
久留米大神宮は当社御本殿に奉安され、月読宮は境内北面にお祀りされるようになりました。
※1紺屋町は今の三本松公園あたり。昭和の時代まで今の三本松公園に御鎮座していました。
月読宮のお守り
当宮の常若御守の遷霊祈念祭は年中でもっとも美しい月といわれる中秋の名月の夜に執り行われます。お月さまは満ち欠けを繰り返すことから再生や若返りを司ると信じられ、古くから若返りの御神徳・眼病平癒の信仰があるといわれています。
うさぎ絵馬
月の神さまに“えま”をご奉納いただけます。お願い事をされる方お一人づつ、ご自身でうさぎの顔を描くことができ、記入面には“うさぎの名前”をつけることができます。
久留米城下町の大神宮
右の赤く印された個所が日吉神社、左の赤く印された個所が大神宮。
久留米城下町の大神宮として参拝の大変盛んであったと伝えられます。
(久留米市史第2巻付図2天保時代久留米城下図)
紺屋町 豊宇気比賣神社(伊勢ノ宮又大神宮ともいふ)
御祭神
豊宇気比賣神
瓊瓊杵尊
天兒屋根命
太玉命
寛永13年(1636年)、元十間屋敷(日吉町)に鎮座
寛文6年(1666年)4月、遷座
祭日8月17日・18日・19日
(久留米市誌上巻567頁)
天照大神宮 府下紺屋町にあり。
寛永13年 神職山内庄左衛門、西久留米十間屋敷に於て伊勢度会の外宮豊受皇太神宮を勧請し、
寛文6年、今の地に遷宮あり。
(訂校筑後誌127頁)
寛永十三丙子年
大神宮社弐間ノ三間 西久留米ノ内十間屋敷建立
正月山田庄左衛門取立
(石原家記 上巻 103頁)
寛文六丙午年
四月大神宮御社再興 紺屋町弐丁目建
只今迄西久留米之内十間屋敷社一宇二間三間有り山内氏より三代岡甚太夫此所え引直し再興
(石原家記 上巻 337頁)
宝永二年酉年二月
紺屋町伊勢宮再建。(先頃類焼に付、此節有馬要人殿下屋敷之内地面寄進有り。是迄町並に宮居建しを引取建。在町より奉加を以再建。)
(福岡県史資料 第五輯 米府年表 431頁)
宝暦五乙亥年
當年紺屋町伊勢宮建立棟上十二月六日此社神殿八尺九尺に九尺廊下
奉加銀拾三刃上る壹間半要人様(家老 有馬要人)より御寄進廣る
(石原家記 下巻 437頁)
寛政八辰年九月
於紺屋町伊勢宮大相撲興行。
(福岡県史資料 第八輯 米府年表 445頁)
享和元年酉年六月
紺屋町伊勢宮境内にて角力興行、九紋龍三十七才、六尺七寸、此外不知火・手柄山・千賀ノ浦等其外大角力罷越候。
(久留米藩 郡方下代 豊田丈助 公用見聞録 31頁)
享和二戌年八月
久留米伊勢宮え相撲興行、雷天始平石(是元龍門後陣幕改メ)押尾川・千田川・稲妻其外大勢上方相角取参候事。
(久留米藩 郡方下代 豊田丈助 公用見聞録 33頁)
文化十三子年三月十一日
紺屋町伊勢宮において五穀成就大神楽執行。
(福岡県史資料 第九輯 米府年表 517頁)
天保七申年五月
同月御家中の面々、相撲見物罷越聞敷旨(當五月紺屋町伊勢宮において、角力有之候處、御家中の面々の内、罷越候輩も有之哉に相聞へ、已下略す)。
(福岡県史資料 第九輯 米府年表 548頁)
明治四辛未年
九月二五日より於三本松伊勢宮冠木芝居興行大札一匁八分小札一匁高坐敷十匁切落八匁平坐敷六匁晴天十日。
十月伊勢宮芝居追願又五日大阪片岡我蔵、大阪片岡市蔵。
(久留米市誌 下編 加藤田日記 609頁)