久留米の大神さま

久留米の大神さま

久留米宗社日吉神社

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鎮座地

 福岡県久留米市日吉町百六番地

例祭日

 11月11日

御由緒

久留米日吉神社境内明治図

古事記上巻に「大山咋命亦名山末之大主神此神者坐近淡海国之日枝山亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」と記され、滋賀県大津市坂本に鎮座の旧官幣大社日吉大社が御本社です。
山、水、木の清浄なるを司り給い、古くは『酒の神様、都の鬼門守護、厄除け守護神』としても崇められ、魔除招福の御神威により、万物の生成発展を神助し給う広徳の神として信仰されています。
須佐之男命の孫神様に当られます。

 

古くから久留米の最中心にお祀りされた大神さま

久留米城 御本丸地主神 坂本山王宮

久留米宗社日吉神社は、平安時代のおわり治承年中(1177年~1181年)に久留米の土豪 松田庄左衛門が笹山という場所を開き、その館の守護神として祀られていたと伝えられます。この松田の館後には、高橋某、豊饒永源、高良座主良寛の弟麟圭、小早川秀包、田中吉信、久留米藩主有馬家が居城し、当社は地主神として有馬家二代藩主の正保4年(1647年)まで笹山の地に御鎮座されていました。

明治時代に藩主有馬家を称え御創建された篠山神社の文書には、『御本丸地主神坂本山王宮ハ秀包城普請ノ時今ノ御厩ノ地二移サレ、豊氏公御入部後、十間屋敷二移サル、其注連松ハ北御門前井戸脇ニアリ、枝葉等風折有之時ハ坂本宮社人永田氏祓ヲ修シテコレヲ拝受ス(閑暇箒木)』(豊臣秀吉より久留米領地をあたえられた小早川秀包<毛利秀包>が、久留米城修築のときに現在の二ノ丸<秀包時代の本丸>に日吉神社を移され、有馬氏が新城郭普請のときに現在地の日吉町に御遷座される)とあります。

このことについて久留米市発行の久留米市史 第二巻には『「いまの市内日吉町の山王社はもと二の丸にあったのを、有馬氏が新城郭普請のときここに移したものである。もともと久留米城地の地主神で、秀包時代の修築のとき二の丸に動かされている」と記している。言い換えれば、現在の篠山神社のある地(有馬時代の本丸)は山王宮が鎮座する自然丘陵であった。』と書かれています。

※地主神とは鎮守社よりも前からそこに鎮座されているもので、久留米城地の古い鎮守社では貞観17年(875年)のものもあり、久留米城地の地主神である当社の創建はそれをさかのぼることも考えられます。

 

久留米

当地において『久留米』の名称は、筑後守吉志公忠(きしのきんただ)が天慶7年(944年)に注進した「筑後国神名帳」に『玖留見(くるみ)神』の記述が見られ、見と目が相通じることに始まります。次に『久留目』の名称が室町時代(1418年)の「報恩寺坪付帳」に見られましたが、「久留米市史」によればこちらは何を指す名称かは特定出来ないとのことです。次に当社が地主神として御鎮座していた、豊饒永源の居城した天文2年(1532年)「九州治乱記」に初めて『久留米城』と記され『久留米』の名が見られます。

 

久留米の大神さま

有馬藩統治時代には、それまで記述の見あたらなかった村名として、三井郡東久留米村と三潴郡西久留米村の名が見られるようになります。城下町の主要を形成する二村には久留米城に御鎮座されていた山王宮がお祀りされました。それぞれの久留米村の総氏神として、『久留米』の名前を冠した東久留米山王宮、西久留米山王宮と云われました。

 

久留米宗社

正保四年(1647年)に久留米城二ノ丸より現在地に御遷座された後は、東久留米山王宮また十間屋敷山王宮と呼ばれ、各代にわたり城内安全祈願や藩主の初宮詣でや諸祈願が厳修されてまいりました。第4代久留米藩主からは城下町随一の社として『久留米宗社(くるめそうしゃ)』という称号が奉られました。これは久留米の宗廟の神社であることを意味し、御創建より久留米の土豪の守護神であり市中鎮護の神・藩民守護の社ともいわれ、今日まで久留米を代表する神社として日々祈りつづけています。

 

久留米大神宮

久留米大神宮は、三重県伊勢市の神宮(伊勢神宮)の正宮である外宮の御分霊が久留米の地に奉斎された神社です。現在は日吉神社の御本殿に奉安されております。

御由緒は、こちら

 

日吉神社の破魔矢とは

お正月に頒布される朱塗りの破魔矢は日吉大神の別の御姿を表したものと伝えられており、破魔招福の縁起や子授けの縁起で多くの参拝者に授与されています。

 

本殿が西を向いている理由とは

通常、神社の向きは南か東を向いていますが、当社は西を向いています。
これは城下町の最東南から広く久留米の街並みを望み市中を守護するためです。

 

 

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